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京都地方裁判所 昭和30年(わ)724号 判決

被告人 三上隆 外一名

主文

被告人三上隆を罰金壱万円に

被告人伊多波重義を罰金弐千円に

各処する。

被告人両名が右各罰金を完納することができないときには金弐百五拾円を一日に換算した期間当該被告人を労役場に留置する。

この裁判確定の日から被告人伊多波重義に対し壱年間右刑の執行を猶予する。

本件公訴事実中被告人両名の杉岡道樹、石井完一郎、中村七郎、中島清、及び加藤信一に対する共同暴行の点及び被告人伊多波重義の滝川幸辰に対する傷害の点はいづれも無罪。

理由

(事実)

被告人三上隆は、昭和二九年四月立命館大学法学部から京都大学文学部哲学科三年生に転学したものであるが同年一二月頃、翌昭和三〇年三月頃に京都大学で開催予定の全国学生哲学会第一回総会の準備委員会の責任者となり、同時に京都大学学生の自治組織である同学会の総務部執行委員に就任したもの、被告人伊多波重義は、昭和二八年四月同大学法学部に入学し、昭和二九年一二月右同学会第二副中央執行委員長に就任したものであるが同学会では、昭和三〇年六月一八日の同大学創立記念日に当り、同日を中心とした同月一七日一八日一九日の三日間にわたり前夜祭、音楽会、講演会、園遊会等を内容とした同学会主催の創立記念祭を開催することを決定し、被告人伊多波等は、同年五月七日、同大学学生部に、当時の同大学総長滝川幸辰宛創立記念祭に関する要望書を提出した。一方被告人三上は右全国学生哲学会準備委員会の責任者の地位にあつたところから、同年二月頃から、同部に全国学生哲学会を同大学内で開催することの許可を求めて接渉していた。これに対し、同部は、同年五月二一日学生部委員会を開いたうえ創立記念祭に対する根本方針を協議し、同年も創立記念祭の開催は認めるが、その内容は、前年である昭和二九年秋の文化祭で同大学の認めない集会があつたため、これを警告した告示第七号が出されていることにかんがみ、学外者が入らない程度のものとすべきであるということに決定した。そこで、昭和三〇年五月二三日学生の要求を容れ総長と被告人両名を含む学生代表約一〇名とが面接し前記要求書にもとずき意見を交えた際被告人三上は、右全国学生哲学会を創立記念祭の一行事として開催したい旨要望したのに対し、滝川総長は、記念祭は同年限り認めるがその期日は前年どおり六月一九日二〇日とすること。及び全国学生哲学会は同大学の集会規程に反するから許されない趣旨の回答をし、同年五月二四日大学当局は評議会を開いて創立記念祭を、同年六月一九日、二〇日に開催することを認める旨決定し、同学会代表に示達したところ、同学会は、この決定を不満とし、被告人両名を含む学生等は、学生部に園遊会、全国学生哲学会の開催の許可を求めて、数度同部と接渉し、なお同年六月二日午后〇時過頃被告人三上は他の学生数十名とともに直接滝川総長との面接を求めて京都市左京区吉田本町官有地京都大学本館建物二階総長室前廊下に押しかけ、同日午后二時頃になつて、当時の学生部長田中周友が、総長が同月三日学生代表と面接する旨を伝達して、ようやくその場を収拾した。このようにして学生代表高橋正立外九名は、同月三日午后一時頃から午后二時過までの間同本館建物二階総長応接室で再度滝川総長と面接したが、このときも学生側の満足する回答が得られなかつたところから、

第一、被告人三上は、同日午后二時過頃、数十名の学生と、同本館東階段下附近で、右高橋正立等から総長との面接の状況について報告を受けたが、滝川総長の回答は以前と異つていないことを聞知すると、強く不満を感じ、「代表は弱腰だ。哲学ゼミを潰すのか、総長をここによんでこい。総長と我々と話しよう。」という趣旨の発言をし他の学生等もこれに同調して騒然となりその場を去ろうとしなかつた。そこで右学生部の当時の学生課長杉岡道樹及び補導主事石井完一郎はこもごも、「総長は明日ヨーロツパに向けて旅行されることになつているから総長を早く引きとらせるため学生部長室に行つて話し合おう。」という趣旨のことをのべて説得したにも拘らず、被告人三上は、「我々は部長や課長に話しにきたのではない。総長に話しにきたのである。今頃部長室へ行つて部長や課長と話しても始まらぬ。総長と会わなくては駄目だ。」と主張して譲らず、同日午后二時三〇分頃その場に参集していた学生も、全部でもう一度滝川総長に面接しようということに意見がまとまつた。恰度その頃同総長は、所用のため右本館建物の北方にある法経本館の法学部研究室に赴くべく、秘書西村源次を帯同して総長室を出、大ホールを通つて西階段から階下に降り西北出口を出た。ところがたまたま同総長の右行動を知つた右本館建物階上にいた学生が、「総長は、帰つた。」と前記階下に参集する学生等に伝えたので、これら学生等は、いつせいに総長を追つてその場から廊下を西へ走つた。被告人三上も、総長を阻止してこれまでの総長の態度に抗議をしようと思い、他の学生とともに右廊下を走つて西出口から右本館建物と法経本館第四教室とにはさまれた中庭に出て、右両建物を結ぶ渡廊下を、守衛等に守られて行く右総長に追いつき、その附近で十数名の学生と共にその進行をはばんだので、同総長は右法学部研究室に行くことが出来なくなり再び本館建物内に引きかえそうとしこれを守る守衛等大学職員は、強いて総長の身辺に近づこうとする学生と押し合いもみ合い混乱状態となつた。そして同総長等が同建物の北にある植込の北辺附近に沿つて西へ右植込の西北角附近まできたとき、そこで被告人三上は、西方から同総長の右側に身体を激しく一回ぶつつけ、その際同被告人の足で総長の右脚下腿部に全治に約三週間を必要とする右脚下腿部打撲症を与え、

第二、被告人三上、同伊多波は、前記第一のとおり総長が学生等に阻止され、法学部研究室に行けず再び同日午后二時四〇分頃本館建物二階の総長室に引きかえした直后、数十名の学生とともに、右本館建物東階段下に集まり同階段踊場から上にいる大学職員と対峙しながら、なおも総長に会わせろと要求し続けたので学生部としては、事態収拾のため前記田中学生部長、学生課長杉岡道樹、石井完一郎、浅海英三両補導主事がこもごも同階段踊場附近で、総長会見も済んだのだから解散するように説得したが応ぜず同日午后五時頃には、参集学生の数が約一〇〇名に達し、同日午后六時頃被告人伊多波の司会の下に被告人三上も提案して、屋外集会全面禁止の撤回、学生インターゼミナールを許可すること等を内容とした五項目の要求を提出して譲らず、学生部は更に説得を続けていたが、同日午后八時頃学生側より、大学側が既に決定したことを白紙に還元する。総長に右階段のところまで出て来て貰い度いという最后の要求を受け、学生部は、これでは、説得による解散も不可能であると判断し、同日午后九時頃、同部は右総長の承認を得たうえ、右高橋正立を通じて右階下参集学生に対し、総長は明日出発されるのであるから午后九時二〇分までに解散せよ。解散しない場合は不法集会と認め適当な措置をとる。等という内容の大学側の最后通達を示達し解散退去を要求した。ところで右示達を受けた被告人両名等階下参集の学生は、同通達にいう適当な措置とは警察官による強制退去の措置であり、従つて右は同日午后九時二〇分までに少くとも本館建物から外に退去を求めている、大学側の学生に対する退去要求であることを理解したにも拘らず、被告人両名は他の数十名の学生と共謀のうえ、直ちに同大学職員の制止を排して、当日上ることを禁じられていた右本館建物二階に押し上がり、同日午后一一時過頃やむなく、総長の要請で出動した京都市川端警察署の警察官に右建物外に退去させられるまで同階の総長室前廊下に坐り込み、もつて同日午后九時二〇分から同日午后一一時過頃まで故なく同建物を退去しなかつた

ものである。

(証拠)(略)

(法令の適用)

法律に照らすと被告人三上の判示第一の点は、刑法第二〇四条罰金等臨時措置法第二条第三条に、被告人両名の判示第二の点は刑法第一三〇条後段第六〇条罰金等臨時措置法第二条第三条に各該当するところ、被告人三上の右各罪は刑法第四五条前段の併合罪の関係にあるから、各罪の所定刑中罰金刑を選択のうえ、同法第四八条第二項を適用し、各罪の所定罰金額の合算額の範囲内で同被告人を罰金一〇、〇〇〇円に処し、被告人伊多波についても所定刑中罰金刑を選択のうえその所定罰金額の範囲内で同被告人を罰金二、〇〇〇円に処し、被告人両名において右の罰金を完納することができないときは同法第一八条を適用し、金二五〇円を一日に換算した期間当該被告人を労役場に留置することとし、被告人伊多波に対し、情状右刑の執行を猶予するのが相当であるから同法第二五条第一項罰金等臨時措置法第六条を適用しこの裁判確定の日から一年間右刑の執行を猶予し、訴訟費用の負担について刑事訴訟法第一八一条第一項但書を適用しその負担を各免除する。

(無罪に対する判断)

第一、被告人両名の共同暴行について

公訴事実の要旨は、被告人両名は昭和三〇年六月三日午後二時過頃本館建物と法経第四教室との中間空地附近で総長滝川幸辰を取り囲み多数学生と共同して、総長に随行していた杉岡道樹、石井完一郎、中村七郎、中島清、加藤信一に対し交々その身体を手で突き、引張り、又は之に体当りし或は蹴る等の暴行を加えたというにあるがこれに対する当裁判所の判断は次のとおりである。

一、暴力行為等処罰ニ関スル法律第一条にいうところの、数人共同暴行の罪が成立するためには、二人以上のもの相互間に暴行の実行行為についてそれが謀議ないし通謀であると或は単なる共同認識であるとを問わず、いづれにしても犯人間の意思連絡を必要とすること論をまたない。ところで、本件において判示第一の事実認定に挙示した各証拠更には、証人加藤信一、土田芳樹、伊藤重吉、山本正生、吉川栄蔵、猪木正道、植松元代、鰺坂真の当公廷における各供述を綜合すると、六月三日午後二時過頃、東階段下に集つた数十名の学生に、学生代表が総長との面接の結果を報告した後、階下学生がこれを不満とし、更に総長との面接を要求し、その場にいた学生部の杉岡課長、石井主事等に取次ぐことを求めていた時、階上から総長が帰つたという声が聞え、咄嗟に階下の学生は廊下を西に走つて中庭に出た。一方西北口から四、五名の守衛等大学職員に守られて中庭に出た総長は、渡廊下を少し北に行つた辺で、二、三の学生から待つて下さい話が残つています。と云つて近寄られ、総長はこれと穏かに会話を交し、更に北に進もうとしたとき、西口から出た被告人三上を含む十数名の学生にかこまれた。その時総長は大学職員七、八名に囲まれていたので学生はその囲みをかきわけ総長の前に出て総長に話しかけようとして近寄つたが大学職員に押し戻され或はどけられ、排除された学生が又前に廻つてくるという状態になり総長は北に行く事を断念し、西の方へ植込の北を沿つて進んだがその間も右の状態が続き、本館建物西北角辺から双方その数も増え大学職員と学生との揉み合いが殊に激しくなつたが漸くにして総長は西口にたどりついてそこから入つた。そしてその間の時間は十分乃至十数分という短時間であつたことが認められ極めて偶発的な短時間の出来事であることは明らかであつて学生相互間に、総長を守つていた大学職員杉岡道樹、石井完一郎、中村七郎、中島清、加藤信一に暴行する通謀ないし謀議が成立したことを認めるに足る証拠はなく更に暴行現場で右五名に対する個々の暴行行為について相互認識があつたとする証拠も本件にない。従つて、右五名が学生によつて暴行をうけたとしても、右は共同による暴行といえないから、その暴行の責任をその他の者に負わす訳には行かない。

二、次に共同暴行の訴因の範囲内で、訴因の変更を要しないで認定し得る被告人両名が夫々単独で右五名に暴行を加えたかどうかの単独暴行罪の成否について考えてみると、

(一)杉岡道樹に対する暴行は、同人の検察官に対する第二回供述調書抄本中同人の供述として、私は総長の身辺に行こうとしましたらその時私の左首筋を手で掴んで左後方に引張られるのを感じました。私を引張つたのは学生であつた。旨の記載があるが、右学生が被告人両名であるという証拠はない。

(二)石井完一郎に対する暴行は、同人の検察官に対する第一回供述調書抄本中同人の供述として、私も総長を守るため学生の群を破つて中へ入ろうとしましたが学生のため、服を引張られたり又は振り廻していた誰かの手が私の肩に当つたりした旨の記載があるが右と同様この学生が被告人両名であるという証拠はない。

(三)中村七郎に対する暴行は、同人の当公廷(第一五回公判期日)における、私は恰度化学研究所の方の西入口の手前で、一人の学生に後襟首を掴まれて約一米程後方に引ずられた旨の供述があるがこれも亦その学生が被告人両名であるという証拠がない。

(四)中島清に対する暴行は、同人の当公廷(第一五回公判期日)における、私は西出口より北西、二、三米の処で学生達をはねのけてその人垣の中へ入るべく寄つたら被告人三上に後から右腕の上膊部を掴まれた。乱暴をよせと言つたら放した旨の供述がある、しかし同人は検察官の取調べの際、私は総長の後一、二歩の所に行つて総長に詰め寄つてくる学生を引きはなしているときであるが左腕を後に引つぱられた。と供述したことも、反対尋問で明らかになつた。そうすると、同人は果してどんな機会に、どんな場所で、どの程度に、どちらの腕を掴まれ又は引つぱられたのかを明らかにすることができないし、又同被告人の右所為が果して暴行といえるものかどうか、更には同被告人に暴行の犯意があつたのかどうかも明らかでないから、右の供述をとつて、直ちに被告人三上の暴行を認定することはできないし被告人伊多波については、同人に対する暴行に関し何等の証拠もない。

(五)加藤信一に対する暴行は、同人の当公廷(同右)における、私の身体に学生の手がふれることはあつたが、それは混雑の中に立つていたら誰でも触れるような程度のもので、中庭で被告人両名が居たかどうか判らない旨の供述があるがこれだけでは同人が果してどんな暴行を学生から受けたのか確定できない。

三、そうすると、右五名に対する共同暴行の点については、被告人両名及び他の学生との共同の事実、更には被告人両名の単独暴行の事実についてこれらを認めるに足る何等の証拠がないことに帰する。

第二被告人伊多波の傷害について

公訴事実の要旨は、被告人伊多波は被告人三上他多数学生と共謀のうえ、右中庭で、総長を取り囲み、総長に対し交々その身体を手で突き、引張り、又はこれに体当りし或は蹴る等の暴行を加えその際被告人伊多波は肩を激しく手で突き被告人三上は数回体当りした上、足でその右脚を蹴り、被告人等の右暴行の結果総長に全治約二月を要する右第一〇、第一一、第一二肋骨骨折及び全治三週間を要する右下腿部打撲症を加えたというにある。

これに対する当裁判所の判断は次のとおりである。

一、先づ、右第一の一の項に認定した事情の下に、総長を中庭に阻止する事件が突発的に生じたものでもあるし、大学職員である杉岡道樹外四名に対し共同暴行の共同認識がなかつたと同様、学生の間に総長に対しても暴行を加えようとする通謀ないし共同認識があつたとは証拠上到底認めるわけに行かない。そうすると被告人三上を含めた他の学生が総長の身体を交々手で突き、引張り又は体当りし、或は蹴る等の暴行を加え、そのため公訴事実に記載のような傷害を加えたとしても、被告人伊多波にその責任を負わせることはできない。

二、次に被告人伊多波が総長の肩を激しく手で突いたかどうかについて証拠を検討すると、証人西村源次が当公廷(第二〇回公判期日)で、総長が学生に押されて本館建物西北角から約一〇米程北西の地点を南向いて進んでいたとき、被告人伊多波が総長の前の方に近寄つて、右手でその右肩を激しく押しそのため総長の体は西の方に廻つた。それまでは被告人伊多波は、総長の洋服を引つぱつたりネクタイを引つぱつたりしたが具体的にどことはつきり言えない。旨供述しているのが、右事実を裏付ける唯一の証拠である。そこで右証人西村の供述の信ぴよう性について考究すると、先づ被告人伊多波の弁護人毛利与一から右供述の弾劾として取調請求をした西村源次の司法警察員に対する昭和三〇年六月六日付(二通)同月九日付及び検察官に対する第一回ないし第四回各供述調書写を精査するに、同年六月六日の第二回目の司法警察員の取調べに際し、「三上の外にも総長の法学部の方へ行かれるのを阻止したものがありますが私は総長の襟許を掴んだり、強く押したりしたものが二、三あつたように思いますがこの連中の行為は総長に帰宅して貰つては困ると思つてやつていたと思います。」とのべている。そして次に検察官の第一回供述調書(同月九日)には、「そのうち特にひどかつたのは、三上君と頭髪を真中から分けて油もつけていなかつた、長身瘠型の学生服を着た男で、此の男は総長の肩に手を掛けました。………私はすぐ総長室に入り………先生お怪我はといいましたところ………総長は、頭を真半分に分けた長身の学生服の男も仕方のない奴だ、肩を殴られた。と申されました。それで私は之は前述のように総長に二、三回も体当りした上肩に手をかけた男の事を云うのだと思いました。」とのべ、同第二回供述調書(同月一六日)には「私は前回その男は頭髪を真中から分けて油をつけていなかつたと申しましたが、その後川端警察署で写真を見せられましたら頭髪は真中でなく七・三の様にも見受けれましたが当日私の感じとしては真中から分けていたと思つていました。その学生が今度写真を見せられた時名前を聞いて伊多波君である事が判りました。………私と総長とが前回申しました様な状況で本部建物の西北端から西北方約十米位の地点へ来た時でした。その時総長は稍西南向になつており私は総長の東方約一米位の処に西向になり歩いていましたら、総長の右斜め前方に伊多波君が出て来て、総長との距離約半米位の処に近寄り右手を突出して口に何かわめきながら烈しく総長の左肩にその手を掛け総長の進行を止めましたので総長は立止りました。」とのべている。これらを当公廷における同人の供述と比較する同人は捜査官の取調べの際長身瘠型の学生服をきた後できくと伊多波という名前の男が、本部建物西北角から一〇米位西北方のところで、総長の右斜前から右手で総長の左肩に手を掛け総長の進行を阻止したといつていたのが、当公廷では、右場所で、総長が南向いて進んでいたとき、被告人伊多波が前の方に近寄つて、右手でその右肩を激しく押しそのため総長の体は西の方に廻つたと変つた。そこで、果して被告人伊多波は、総長の左肩に手を掛けて立止まらしたのか、総長の右肩をその体が西の方に廻る程強く押したのかという疑問が起る。こゝで若し総長が西の方に廻る程強く押されたとするには、右肩を押されたとしなければならないことに留意すべきである。そして、そのように強い外力が加えられたのなら被害者自身も記憶に残つていると考えるのが、我々の経験則に合致するので、証人滝川幸辰の当公廷における供述(二回とも)を調査してみると、被害者である滝川幸辰は、被告人伊多波は、顔は知つていたが名前はしらなかつた。西北角のところで、被告人三上に足をけられたと同じ頃被告人伊多波に右脇腹の少し後のところを足で蹴つたのか平手か拳で突かれたのか判らないが殴られた。痛いので後を振向いたら被告人伊多波がそこにいたから同被告人が殴つたと思う。被告人両名以外に、はげしく掛つてきた学生はない。被告人両名はいれ代りたち代つてしつこく掛つてきた。被告人伊多波について確信をもつて言える事は右脇腹後を殴られたことであるとのべてはいるが、証人西村源次が供述するような被害を受けたことは何等のべていない。もつとも滝川証人の証言(第二五回公判期日)中に被告人三上は前肩をついたり後から突いたりしたことは何回もあつたし、被告人伊多波についても同様のことがあつた旨のべているところがあるが、何等具体性がなく西村証人の証言するところと一致するかどうか判然しない。そうすると被告人伊多波の右行為は被害者の記憶に残らない程度の軽微なものではないかという疑い、更に進んではその様な事実が果してあつたのかなかつたのかという疑問までも生じ、他に反証のない限りそのいづれであるとも確定できない。

以上の次第で被告人伊多波が総長の右肩を手で激しく突いたかどうかについてこれを確認するに足る証拠はないことになる。なおその他被告人伊多波及び他の学生(但し被告人三上の判示第一認定の傷害を除き)が具体的にどこで、どのような機会にどのような種類の暴力を総長に加えたかを肯認するに足る証拠はない。

三、ところで被害者滝川幸辰は、右供述どおり被告人伊多波に西北角で後方から右脇腹後を殴られた。そのため公訴事実に掲記のような肋骨々折が生じた旨証言しているので同被告人がそのような暴行をしたかどうかについて判断すると、滝川証人の供述の信ぴよう性についてこれを弾劾するため同被告人の弁護人毛利与一から取調べの請求があつた前掲滝川幸辰の司法警察員に対する同年六月四日付同月六日付、検察官に対する同年七月二二日付各供述調書抄本及び猪木正道の検察官に対する供述調書抄本によると、滝川総長は、同年六月四日見舞にきた猪木正道教授に「殴つた男は後からだから判らないが蹴つたのは前だからはつきりその学生は判つて居ります。」と告げている。同日それより前自宅で司法警察員の取調を受けたときは後から殴られたことには全然ふれていない。同月六日付の司法警察員の取調を受けた時も同様である。そしてヨーロツパの旅行から帰り、既に近藤鋭矢教授の肋骨々折の診断を受けた後である。同年七月二二日の供述調書では、長身の学生服を着た学生が最も激しく繰返し繰返し突き当つておりました。この学生がお示しの写真の伊多波ですとあるだけで、当裁判所に顕れた証拠の範囲では右脇腹後を殴られたということは法廷ではじめて証言したことである。本件において特に検察官から書面で同年七月二八日訴因を変更して肋骨骨折の傷害事実を追加されたことは、当裁判所に明らかであるから、同月二二日の検察官の取調に当つては被害者に当然この点の取調べもされたと考えられるが、それにも拘らずその時作成された調書には、右傷害を生ぜしめたと考えられる右脇腹後に加えられた被告人伊多波の暴行について何等述べられていない事を、どの様に理解したらよいのか判断に苦しむ次第でこれ等の事情を彼此考察すると滝川証人の当公廷での右供述のみをもつてたやすく被告人伊多波の暴行を認定することはできないし外に右事実を肯認するに足る証拠はない。従つて滝川総長の肋骨々折について被告人伊多波にその責を負わすべき理由はないものといわなければならない。

第三、最後に被告人三上の総長の肋骨々折に対する責任について考察すると同被告人の暴行により総長に判示のような右脚打撲症を与えたことは認められるが、同被告人の判示暴行により総長に肋骨々折を生ぜしめたことを認めるべき何等の証拠がないからこれ又同被告人の責に帰することはできない。

第四、よつて被告人両名の杉岡道樹、石井完一郎、中村七郎、中島清、加藤信一に対する共同暴行の点及び被告人伊多波の滝川幸辰に対する傷害の点は、いづれもこれを認めるに足る証拠がないから刑事訴訟法第三三六条を適用し被告人等にそれぞれ無罪の言渡をし、被告人三上の暴行により総長の肋骨々折を生ぜしめたことも亦これを認むべき証明がないが、これは判示傷害と一罪の関係で起訴せられているものであるから特に主文で無罪の言渡をしない。

(証人滝川幸辰の供述の信ぴよう性について)

なお本件において特に傷害の点の証拠として極めて重要性を持つ証人滝川幸辰の証言の信ぴよう性について、各弁護人はその証言をもつて「融通無碍」とか「変転極まりない」と非難し、同証人は自分に都合の悪い事柄についてはそれがどんなに重要なことであつても、自分に都合のよいように簡単に変える性格があり信用できないと主張する。その理由としてあげるところは種々あるが、直接本件訴因に関する部分は既に証拠説明において触れているのでその他の部分で重要と考えられるものについて簡単に考察する。

先づ第一に同証人が極東軍事裁判所に証人として出廷して証言したとき、昭和八年の所謂滝川事件で京大を辞職したのは著書「刑法読本」が時の政府に好ましくないものと見られたことによるものとされ、世間もそのように理解していたのに対し、右は辞職の表面上の理由であつて実質上の理由は満州事変に反対したことによると述べたが、凡そ国家が決めた罷免の事由を簡単に否定しその上世間の理解とも反し満州事変に反対したためだと主張するところに同証人の前記のような性格が見られるというのであるが、この点については同証人の当公廷(第二八回公判期日)における供述と証人宮本英雄の当公廷における供述とを綜合すると、滝川証人が極東軍事裁判の法廷で述べたところは同証人が事実無根のことを供述したものとは断じ難く、又弁護人は同証人が右滝川事件で職を賭して戦つた大学教授の罷免に関する教授会の自治権について、教育公務員特例法の施行により今日これは消滅した旨新聞に発表し、又当公廷においても同趣旨のことを述べているが、これ亦同証人の右性格のあらわれであると主張する。然しこの問題は証人が自己の経験した事実を否定するという類のものではなく法規範の解釈に関する問題であるし、又同証人の見解は当公廷(第二八回公判期日)における供述によれば、法制上は教育公務員特例法により大学教授の罷免は大学評議会が行いその教授の属する教授会の同意は必要でないことになつたが、運用上は教授会にはかり、その同意を得るのが妥当である。そして教授会がその教授を罷免するという決議をした時はその教授は辞表を出さなければならないが、辞表を出さない時は大学評議会で決議しなければならないということであり、同法施行后の解釈としてかような見解もむげに排斥し得ないと考えられるから、このことから又直ちに弁護人の右主張を肯認するに足らない。その他右主張を認むべき十分の根拠を見出すことができない。結局その証言の信用できるかどうかは個々の場合についてその証言の内容や他の証拠を具体的に検討して合理的に決すべきものである。論ずる迄もなく正しい証言は、その証人の体験、記憶及び表現のいづれもが正確でなくてはならないのであつて、そのいづれが不正確であつても証言の正確性は保証されない。然し故意に虚偽の供述をする場合は別として、右要素の正確性を欠く場合、例えば見間違い、聞き違い、記憶違い、言い違い、思い違い等は時としてあり得るところであり、総て証言が部分的に誤つていたからといつてそのことからその証人の証言が当然に全面的に信用できないということになるものではないと考える。それが信用できるかどうかは前述のとおり専らその証言を内容的に又他の証拠と照合検討し合理的に決するの外はない。滝川証人の供述の信用性の評価についても亦何等これと異るところはないのである。

(情状)

本件は、京都大学当局が、昭和三〇年度創立記念祭を学生側の要求するとおり許容しなかつた事に端を発し、学生側が執拗に大学当局にその要求を求めてやまず、総長の外国出張を翌日に控えた昭和三〇年六月三日午後二時頃から同日午後一一時過頃まで総長の帰宅を妨げたもので、右は学生としてその節度を超えたものというの外なく、就中被告人三上は卒先して他の学生を煽動したばかりか、総長に対し傷害を加えたことはその情決して軽くみられない。しかし、学内処分として既に被告人三上は無期停学に、同伊多波は六ヶ月停学に各処せられ、同三上は、昭和三二年三月右処分の解除をうけ、いづれも昭和三三年三月右大学を卒業予定のものであること。被害者である総長自身本件が重い処罰に処せられないことを希んでいること。及び、第二訴因である不退去罪について、被告人両名のみにその責任を負わせることは公平を欠くきらいが無いではないことを考え併せると、被告人両名に対し各法定刑中軽い罰金刑を選択のうえ処罰するのが適当である。なお被告人伊多波については、第二訴因について前述の事情のあること及び、同被告人は事態収拾のため奔走していたことからして罰金刑について更に執行猶予の判決をもつて臨むのを相当と考える。

よつて主文のとおり判決する。

(裁判官 山田近之助 古崎慶長 北後陽三)

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